武士の心(U)

佐々木孝夫 (’99/12/27.名古屋今池 同窓会ミニ・講演)

 先回の続きをお送りいたします。先回は変なところで終わってしまい、自分でもおかしいなと思っておりました。

 先回は自分自身の行動をもう一度チェックしてみようというところまで書きました。

 これがなかなか難しい。貴方はどうでしょか?



 東京の街を歩いておりますと、他の人にお構いなしに歩く人の多い事に気づきます。「他人を押し分けて行かなくては生きていけない。」との強迫観念に捕らわれている様な、顔つきで歩いています。あるいは、「自分達のペ−スを他の人も守りなさい。」的な感じで、道一杯になって、ゆっくりと歩いている人達(老いも若きも)が多い。いつからこうなったのでしょうか。

 我々が若いときには、まだ廻りの人達に気を使って歩いていなかったでしょうか。若い人だけの現象では有りません。良く廻りを見て下さい。貴方もその一人になっているかもしれません。

 我々は廻りに対する優しさを無くしています。

 年老いた品のある方々が廻りの方々に「ご苦労様です。」「有り難うございます。」と声を掛けているのを見る度に、「ア−いいなあ。」「美しいな。」と思うのは私だけでしょうか。「ちょっと失礼。」「ご面倒お掛けします。」等の言葉も最近は聞かなくなりました。この様なちょっとした気遣いが世の中を明るく、良い方向に持って行きはしないか、考えてみましょう。

 随分卑近な例ばかり書きましたが、小さな事から始めなければ大きな事もできません。

 

 それでは、話を戻して、「もののふ(武士)の心」とは何でしょうか?

 今回、相撲の出島が大関になった折りに、力の という言葉を使いましたが、それとは明らかに違います。

 「葉隠れ」の本には「武士道とは死ぬことと見つけたり。」と言う言葉が有りますが、死ぬと言うことは、如何に生きるかと同義語であると書いて有ります。

 如何に生きるか。非常に難しい事です。

 私なんかは、家内に言わせれば、「こんな事を書く資格がない。」と言われそうです。自分の身内程厳しい批評家はないですし、また言い返せないのも不甲斐ないもので、自分自身が嫌になる一時でもあります。でも「家に居るときぐらい。」と甘えているのも事実ですね。

 それでは社会の中でどのように生きるか。

 今更青臭い議論をしても始まりませんが、世の中には「武士道」に関する本があふれております。日本人が書いたものもあれば、外国人が書いたものも多くあります。欧米の人から見ると、武士道と騎士道を対比して述べているものが多く、基本的にはそれほどの大差は無いのではないのでしょうか? だから明治維新の時に日本人(交渉に当たったのは殆ど武士であった)が尊敬されたのではないでしょうか。

 生きていく上で、その人なりの信条とか主義とか、良い言葉が見つかりませんが、何かその人を真っ直ぐに貫いている物が有り、その事が他の人々の迷惑にならない事が大切なのではないかと、近頃感じております。貫いている物があっても、それが他人の迷惑になっているのでは何にもなりません。自分自身の保身の為ばかりに行動している人はやはり

武士の心を持っているとは言い難いものがあります。

 チャンドラ−の小説に「強くなければ生きていけない。やさしくなければ生きている価値がない。」との有名な言葉が有りますが、この言葉も「武士の心」に相通じる物があると思います。これなんかは、騎士道精神と武士道精神との類似性の良い例になるかもしれません。

 昔の人々は「実直」という言葉を良く使っていましたが、この言葉も無くなりました。

 「実直」とは素直とも違うし、誠実とも違っています。お互いの信頼感が無くては出来ない事です。ここにも今の日本人には忘れているものがあります。これは司馬遼太郎の本の中に出てきた言葉でしたが、私もこれを読んでハットいたしました。

 自分自身に問いかけ、自分自身の中に「実直」という言葉があったのかどうか非常に疑問になってきました。

 会社の中ではどうでしょうか。私の組織の中でも見受けられる事ですが、一生懸命頑張っている人が、正当に評価されず、上の人間にゴマを擦っている人が評価された場合、下の人々は敏感に反応します。モラルの低下が発生するのです。武士の心を持っている人々もやはりやる気をなくすでしょう。特に今の若者はこの様な事に敏感に反応します。我々は肝に銘じておかなければなりません。

 今現在世界の中で評価されている企業で、ホンダ、ソニ−は創業時には、評価が厳しかったと聞いております。正当に評価された場合は、現在の若者でも我々の世代と変わらずやる気を出します。やはり世界で評価されるためには、その様な厳しさが必要になります。

そういった意味で、本多宗一郎、深田大等は武士の心を持った経営者と言えると思います。

 では、現在の政治の世界ではどうでしょうか?先日台湾総統の李登輝の著書である「台湾の主張」を読ませてもらいましたが、その中で、「日本人は自信を失っている。何でそんなに自信を無くしているのか理解できない。日本は素晴らしい物を持っている。もう一度自信を持って世界に対処してもらいたい。」との言葉が有りました。司馬遼太郎も著書の中で、「日本の良い部分が台湾に濃厚に残っている。」との言葉が有ります。李総統などは武士の心を持った一人ではないかと思っております。又彼は著書の中で「日本の若者の中でこの人は政治家にしたいと思う人がいくらでもいるが、彼らはその道を閉ざされている。それは日本では、現在政治家の息子でなくては政治家に成れないシステムになっているからだ。」と述べています。確かに衆議院の中で2世、3世議員が全体の半分にならんとしているのが現状です。明治維新以降の場合はどうだったでしょうか。確かに2世議員もおりましたが、政治に情熱を持った者達が政治家になり、日本の舵取りをしたように感じます。

庶民の感覚から遠くにいて、自分の保身に汲々となっている人々に日本は任せておけない

気がします。しかし、彼らを選んだのは我々です。我々の責任も重いと言わなければなりません。こういった現象を見た若者はどの様に思うでしょうか。政治離れになっていって当たり前の事です。我々としてはもう一度この様な観点からも、自分を見つめ直す必要があります。

 いろいろと書いてきましたが、我々英語を学び、社会に出て、海外で活躍しておられる皆様を前にして、次のような事は釈迦に説法かもしれませんが、書かざるを得ないと思っております。

 海外、特にアジアの中で、武士の心を持って彼らと付き合わなければならないとなると、

私は自分自身の勉強不足を禁じ得なくなる場合が多々あります。それは、彼らの歴史認識と、私達のそれとは大きな隔たりを感じることから始まります。彼らは長い歴史の中でも日本の明治維新以降のことを、自分の国が本当の意味で独立した以降のことを重点的に勉強しています。それに比し、我々はその時代のことを学生時代に勉強してきませんでした。

また、社会に出てもこの辺の事を勉強している方は希なのではないでしょうか(失礼ですが)。確かに我々の世代は戦争を経験していません。我々が知っている戦争とは、殆どが親に聞いた戦争体験です。この体験談は往々にして、被害者意識の体験談となっているのではないでしょうか?アジアの方々とこの様な認識の違いのまま話した場合、意思の疎通は大変難しくなってきます。我々日本人が彼らに何をしてきたのかを知っておかなければなりません。誤解を恐れずに言えば、私としては正直な話、日本は彼らに対してヒドイ事ばかりをやってきたとは思っておりません。欧米のやってきたことと比べて、日本が彼らに投資した資本と、搾取した物との差は、日本の場合マイナスになっていると思っています。

欧米は逆に搾取した物の方が大きいのではないでしょうか。ただし、ヒドイ事をしてきたのは事実で、このことには誠心誠意謝罪する必要が有ります。しかし、欧米の国々が口を閉ざし、さも日本のみが悪い様な言い様には抵抗があります。日本として主張しなければならないことは、主張しなければなりません。それでは、アジアの国々の方々との付き合いはどうでしょうか?やはり日本人として、最初は謝る事から始めるのが最良でしょう。

でも、知っていて謝るのと、知らずに謝るのとでは大きな違いが有ります。その為には何度も言うようですが、我々自身がこの時代の勉強をすることから始めなければなりません。

日本は人が良いので、欧米の諸国の政策に乗って、突っ走った様にも見えますし、そこに追い込まれていった様にも見える一面があります。現代の我々も十分に注意しなければなりませんし、若い世代にも伝えていかなくてはなりません。この若い世代に伝えるのも難問です。皆様方の子息には伝えられるかもしれませんが、私の場合は非常に難しい状況です。近頃漸くメ−ルで少しづつ伝えられるようになってきましたが、親の特に親父の言うことなど、日頃の生活態度が態度ですから、聞いてくれません。それで、一計を案じまして、従兄弟の中で同じ意見を持っている者同士が、互いの子息に話をするようにしています。今の若者もこの様な話題に興味をしまします。一度皆さんも試してみてはどうでしょうか?

 話が大分それて来ましたが、話を戻しましょう。

 今私は大正大学の「日本の文芸」という公開講座を月に一回受けております。この講座は、その都度作家の方が来られて、話を直接聞くことが出来る講座です。先日の講座は佐藤愛子でした。彼女は佐藤ハチロ−の妹で、私達が学生の頃から書いていました。今回は「凪の光景」(上下)「風の行方」(上下)いづれも集英社文庫を読んでからの講座でした。

両方の本とも、各世代の幸福とは何かを追求した内容です。佐藤愛子の永遠のテ−マは、

「人間にとって何が幸せなのだろう?」との事です。彼女の最後の結論が私には非常に興味深い言葉でした。「結局最後の最後の幸せとは、何事があろうが動じない心を持つことではないでしょうか。」との言葉でした。

 この言葉こそ、武士の心の結論の様に思います。

 

 長々と書きましたが、青臭い議論と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、我慢して読んで頂いた方々には感謝いたします。何かご意見がございましたら、私の方でも結構ですので連絡してみて下さい。

 CHUBUESS HOME PAGE